AI導入の理想と現実――「便利ツール」が現場の「厄介者」に変わる瞬間
Webで「ChatGPT 業務活用」と検索すれば、キラキラした成功事例や、明日から使えるという触れ込みの便利な活用法が溢れていますよね。ええ、この記事(※編集部注:本記事の元となったChatGPT活用ガイドのこと)に書かれていることも、決して間違いではありません。むしろ、非常に的確で、目指すべきゴールとしては100点満点の羅針盤です。
ただ、長年、物造りの現場から企業の改革まで泥臭く見てきた私から言わせてもらうと、あの記事に書かれているのは、いわば「美しく舗装された高速道路の地図」なんです。
しかし、我々がクライアントと最初に立つ場所は、高速道路の入り口ではありません。地図にすら載っていない、草ぼうぼうの獣道。そこから、まず目の前の草を刈り、石をどかし、ぬかるみに足を取られながら、一歩ずつ道を作っていく。それが、本当の「導入」という仕事です。
今日は、あの華やかな活用ガイドの裏側で、私たちが日々どんな壁にぶつかり、どうやって現場の皆さんと一緒にその壁を乗り越えているのか。特に、技術論だけでは決して解決できない「人の心」と「組織の壁」に焦点を当てた、生々しい裏話をお聞かせしようと思います。
「レベル1の壁」― “便利”という言葉が、誰にも響かない理由
あの記事には《レベル1:個人・チームで即実践》として、メール作成や文章要約など、すぐにでも試せる活用法が12個も挙げられていました。これ、本当に便利なんです。私も毎日のように使っています。
だから、ある食品メーカーの業務改革プロジェクトで、私は意気揚々と部署の皆さんにデモンストレーションを見せました。「この長い報告書も、ボタン一つでこうやって要約できます!」「面倒なメールの返信も、こんな風に一瞬で下書きが完成しますよ!」と。
しかし、一週間経っても、利用状況はほぼゼロ。
プロジェクトの担当者である、入社8年目の佐藤さん(30代・女性)が、申し訳なさそうに私に頭を下げました。
「すみません…。皆さん、便利そうだとは言ってくれるんですが、『今のやり方で別に困ってないから』とか『新しいことを覚える時間がない』って…。なかなか使ってもらえなくて」
これこそが、最初の、そして最も根深い壁です。人は「便利そう」というだけでは動きません。なぜなら、多くの人にとって「現状維持」が一番楽だからです。新しいツールは、たとえ便利でも、慣れるまでは「異物」であり「ストレス」でしかありません。
私は佐藤さんに言いました。
「佐藤さん、大丈夫。これは佐藤さんのせいじゃない。僕の説明の仕方が悪かったんです。全体に『便利ですよ』と呼びかけるのはもうやめましょう。代わりに、一人ひとりの『一番面倒なこと』を、こっそり解決しにいきませんか?」
私たちは作戦を変えました。まずターゲットにしたのは、部署で一番声が大きいベテランの鈴木さん(62歳・男性)。彼はこの道40年の生き字引のような存在ですが、パソコン作業、特に文書作成が大の苦手でした。
ある日の午後、鈴木さんが唸りながら報告書と格闘しているところに、そっと近づきました。
「鈴木さん、お疲れ様です。少しよろしいですか?」
「おう、なんだ。今、この前のクレームの報告書ば書いでだばって、どうも言葉がうまくまとまんねでの」
「もしよろしければ、鈴木さんが話してくれたことを、こいつ(ChatGPT)に文章にさせてみませんか?箇条書きでいいんです。何があったか教えてもらえれば」
「んだな?こんげなので、わがるんだが?」
「ええ、試してみましょう」
半信半疑の鈴木さんから聞いたキーワードをいくつか打ち込み、彼がいつも使っている丁寧な口調を真似るように指示すると、ものの30秒で体裁の整った報告書の草案が出来上がりました。
「…おえ。なんだこれ。おれが一日ががって書ぐよな文章、あっという間じゃねえが」
鈴木さんの目が、初めて見るおもちゃを与えられた子供のように輝きました。
この一件は、口コミであっという間に部署に広がりました。「鈴木さんの報告書、AIが書いたらしいぞ」と。
佐藤さんにも、個別のアプローチを続けました。
「佐藤さん、毎週金曜の午後に2時間かけて作っているあの週報、ありますよね。データのCSVをこいつに貼り付けて『このデータから、先週との比較と特記事項をまとめて』って言うだけで、5分で下書きができますよ」
私たちは「ChatGPTは便利です」という総論を捨て、「あなたの、あの面倒な作業を、こうやって楽にします」という、一人ひとりの具体的な痛みに寄り添う“各論”に切り替えたのです。
ツール導入の初期段階で重要なのは、機能の網羅的な説明ではありません。現場のキーマンや、変化に前向きな個人の「たった一つの、具体的な苦痛」を見つけ出し、それをピンポイントで解決してあげること。その小さな成功体験が、やがて固く閉ざされた現場の空気を、少しずつ溶かしていくのです。
「レベル2の罠」― 正論とルールが、変革の芽を摘む
個人の利用が進み始めると、次に見えてくるのが《レベル2:部門で応用》の壁です。具体的には、個人の「裏ワザ」だったAI活用を、部署の正式な「業務プロセス」に組み込もうとする段階で発生します。
佐藤さんは、個人の成功体験に手応えを感じ、目を輝かせていました。
「次は、お客様からの問い合わせ対応に活用したいんです!よくある質問をAIに学習させて、回答のたたき台を作らせれば、担当者による品質のバラつきも減るし、回答時間も短縮できるはずです!」
素晴らしいアイデアです。しかし、この提案を部署の定例会議で発表した途端、課長(40代・男性)の顔が曇りました。
「佐藤さん、気持ちはわかる。わかるが、AIが作った回答を、もし間違ったままお客様に送ってしまったら、誰が責任を取るんだ?前例のないことをやって、問題が起きたらどうするんだ?」
出ました。「責任論」と「前例主義」。これは、変化を阻む最強の盾です。課長は決して改革に反対なわけではありません。むしろ、現状に問題意識を持っている。しかし、管理職という立場が、彼を「失敗しないこと」に慎重にさせるのです。
ここで「AIの精度は高いですから大丈夫です」などと技術論で返しても、火に油をそそぐだけ。彼らが恐れているのは技術ではなく、「管理責任」という名のプレッシャーなのです。
私は、会議の場でこう提案しました。
「課長、おっしゃる通りです。お客様への回答に万が一があってはなりません。ですから、提案を少し変えさせてください。AIに作らせるのは、あくまで『回答の“下書き”』です。そして、その下書きをチェックし、お客様に最終的に送信する承認者は、今まで通り課長のまま、というのはいかがでしょうか」
さらに、こう続けました。
「AIの役割は、担当者がゼロから文章を考える時間をなくすこと。そして、ベテランの鈴木さんが作るような丁寧な回答文例を、経験の浅いメンバーにも提供すること。これだけでも、回答作成時間は半分以下になり、品質も平準化できます。承認プロセスは変えず、まずはそこから始めませんか?」
ポイントは2つです。
- 責任の所在を変えない: 新しいプロセスでも、最終的な意思決定者と責任の所在は従来通りであることを明確にする。これにより、管理職の心理的な抵抗感を和らげる。
- 完璧を目指さず、スモールステップで始める:「全自動化」という大きなゴールではなく、「たたき台作成の自動化」という、現実的で管理可能な小さな一歩を提示する。
さらに、私はもう一押ししました。
「ちなみに、先月、個人レベルの活用で部署全体で削減できた作業時間は、試算したところ約40時間でした。この時間を、課長が課題として挙げていた『新規顧客へのアプローチ戦略の検討』に充てることができます」
削減した時間を、管理職が評価されるであろう別の成果に繋がる投資として提示する。これは、彼らにとって「リスク」を「メリット」に転換させるための、重要なコミュニケーション術です。
この提案によって、課長の表情は和らぎ、「…それなら、まずは試してみるか」という言葉を引き出すことができました。
組織のルールを変える時、正論や理想論だけでは人は動きません。相手の立場、恐れ、そして評価軸を理解し、変化のリスクを最小限に抑え、かつメリットがデメリットを上回るような「着地点」をデザインしてあげることが、改革を前に進めるための鍵となるのです。
「レベル3の断絶」― 全社展開の号令と、現場のため息
《レベル3:全社で展開》のフェーズ。API連携やシステム統合による全社的な業務改革。経営者にとっては、最も胸躍るステージかもしれません。しかし、現場にとっては、悪夢の始まりになることも少なくありません。
例の食品メーカーでも、鈴木さんの成功事例や問い合わせ対応の効率化が役員会で報告され、社長が鶴の一声を発しました。
「素晴らしいじゃないか!全社でこの流れを加速させよう!情報システム部に命じて、基幹システムとAIを連携させ、全業務を効率化するんだ!」
この号令を聞いた時の、佐藤さんの不安そうな顔と、情報システム部の若い技術者・田中さん(20代・男性)の冷ややかな目の光を、私は今でも忘れません。
すぐに開かれたキックオフミーティングは、まさに「断絶」そのものでした。
佐藤さん:「営業日報の入力や、在庫データとの突合も、AIで自動化できたらすごく助かります!」
田中さん:「…その基幹システムの在庫データ、APIなんて用意されてませんよ。そもそもデータ形式もバラバラですし、リアルタイム連携なんて夢のまた夢です。セキュリティ的に外部のAIと直接繋ぐなんて、うちのポリシーでは許可できません」
佐藤さん:「えっ、そうなんですか…?でも、社長が…」
田中さん:「トップが言うのは簡単ですけど、やるのはこっちなんで。今のリソースでは、まず無理ですね」
これが現実です。業務部門の「こうなったらいいな」という期待と、情報システム部門の「技術的制約・リソース不足」という現実の間には、深くて暗い谷が横たわっています。彼らは同じ会社の社員でありながら、話す言葉も、見ている景色も全く違うのです。
この「断絶」を繋ぐのが、私たちの最も重要な役割です。私は両者の間に立ち、「通訳者」になることを決めました。
まず、佐藤さんたち業務部門にはこう話しました。
「大企業のような壮大な事例は、一旦忘れましょう。あれは、何年もかけて準備した結果です。いきなり基幹システムに手を出すのではなく、今あるツールでできることから始めませんか?例えば、RPA(※PC操作を自動化するツール)を使って基幹システムから在庫データをCSVでダウンロードし、そのCSVをChatGPTに読み込ませて、日報の文章を自動で作る。これなら、情報システム部に大きな負担をかけずに、今すぐにでも始められます」
次に、情報システム部の田中さんには、こうアプローチしました。
「田中さん、業務部門は技術的な制約を理解していません。彼らの『自動化したい』という要望を、技術的に分解するのを手伝ってもらえませんか?例えば、日報作成業務を自動化するために、技術的にクリアすべき課題は具体的に何と何でしょう?それをリストアップして、一つずつ潰していく計画を一緒に立てさせてください。社長への報告も、私から『現状の課題と、それを解決するためのステップ』として具体的に説明します」
ここでのポイントは、壮大な理想論を、実行可能なタスクレベルにまで分解することです。そして、各部署の専門家が持つ知識と懸念に敬意を払い、彼らが理解できる言葉で対話し、一緒に解決策を探すパートナーとしての姿勢を見せること。
AI導入のプロジェクトは、技術のプロジェクトであると同時に、究極のコミュニケーション・プロジェクトなのです。業務部門の想いを技術要件に「翻訳」し、技術部門の制約を業務上の工夫に「翻訳」する。この地道な翻訳作業なくして、レベル3の壁を越えることは絶対にできません。
まとめ:地図の先に道を創るのが、私たちの仕事
「ChatGPT業務活用ガイド」は、確かに素晴らしい地図です。しかし、その地図が示す目的地にたどり着くためには、現場の人の心を動かし、部署間の壁を壊し、それぞれの言葉を通訳し、一歩ずつ道を作っていく泥臭いプロセスが不可欠です。
AIは魔法の杖ではありません。それは、あくまで道具です。そして、どんなに優れた道具も、使う人が「使いたい」と思い、組織が「使う」ことを許し、支える仕組みがなければ、ただのガラクタになってしまいます。
もしあなたが、これからAI導入を考えている担当者なら、どうか忘れないでください。
あなたの本当の仕事は、AIの機能を覚えることではありません。あなたの隣で働く人の「小さな苦痛」に耳を傾け、変化を恐れる上司の「不安」を理解し、他部署の「事情」に敬意を払うこと。
技術の力と、人間への深い理解。その両輪が揃った時、初めてAIは「思考のパートナー」となり、あなたの会社の未来を切り拓く、本当の力になるのですから。