「AIで全部自動化できるんでしょ?」その一言から始まった、泥臭いナレッジベース構築の舞台裏
先日公開した記事、『社内FAQをAIで自動生成!RAG活用でコスト削減と品質向上を実現するナレッジベース最適化術』は、AIを活用して理想的なナレッジベースを構築するための、いわば「正攻法」を体系的に解説しています。
社内FAQをAIで自動生成!RAG活用でコスト削減と品質向上を実現するナレッジベース最適化術 「またこの質問か…」「マニュアルのどこに書いてあるんだっけ?」日々の問い合わせ対応に追われ、本来の業務が進まない。リモートワークや[…]
しかし、皆さんが本当に知りたいのは、その綺麗な設計図の裏側…つまり、計画通りに進まない現場で、一体どんな「人間臭いドラマ」が繰り広げられているのか、ではないでしょうか。
「最新のAIを入れれば、何もかも解決する」
そんな期待とは裏腹に、現場には特有の「壁」が存在します。それは技術の壁ではありません。部署間の温度差、変化への抵抗、長年染み付いた仕事のやり方…といった、人の「心理」と「行動」に根差した、もっと厄介で、そして面白い壁です。
今回は、あの記事には書ききれなかった、ある製造業のクライアントで社内FAQシステムを構築した際の、マネジメントとコミュニケーションを巡る「裏話」をお話ししようと思います。これは、AIというテクノロジーと、泥臭い現場の現実がぶつかり合った、汗と涙(と、少しの笑い)の記録です。
最初の壁:「また新しいおもちゃか」現場の冷めた目線との戦い
プロジェクトが始まった当初、会議室の空気は二つに割れていました。片や、目を輝かせる情報システム部の若手リーダーたち。そしてもう一方は、腕を組み、どこか遠い目をしたベテラン揃いの製造部と業務部のメンバー。
「このRAGという技術を使えば、今まで皆さんが時間を取られていた問い合わせ対応が劇的に削減できます。マニュアルを放り込むだけで、AIが賢く回答してくれるんです!」
情シスの担当者が熱弁をふるうほどに、現場の空気は冷えていくのが分かりました。会議後、製造部のベテラン課長(60代、この道40年の大ベテラン)が、私にぼそっとこう言いました。
「ミズさん、また新しいおもちゃが増えるだけだべ。わだしらは、ただでさえ忙しいのに、そだなもん覚える時間ねぇんだず。だいたい、マニュアル通りにいかねぇごどばりだ、うぢの現場は。」
まさにこれです。これが最初の、そして最大の壁でした。
推進側は「効率化」という正義を振りかざしますが、現場にとっては「今のやり方を変えなければならない負担」と「また仕事を増やされるのではないか」という警戒心でしかないのです。
ここで私がやったことは、AIの話を一切しないことでした。
「課長、すみません。AIの話は一旦忘れてください。それより、最近一番『またこの質問か』ってうんざりした問い合わせって、何でしたか?」
私は、情シスのメンバーには席を外してもらい、製造部と業務部の担当者、例のベテラン課長と、30代の若手女性担当者のAさんだけを集めて、ひたすら「現場の困りごと」を聞く時間に切り替えました。
最初は訝しんでいたAさんも、堰を切ったように話し始めました。
「もう毎日、『あの部品の在庫はどこですか?』『この申請書の書き方は?』って同じ質問ばかりで…。特に新人や部署を異動してきた人からですね。親切に教えたい気持ちはあるんですけど、自分の仕事が全く進まなくて、正直、午前中はそれだけで終わってしまう日もあるんです」
隣で聞いていた課長も、「んだ、Aさは気の毒なぐれ、電話ばり鳴ってだもんなぁ」と頷きます。
これが突破口でした。
プロジェクトの目的を「AIを導入すること」から、「Aさんの午前中の仕事を半分にするにはどうすればいいか?」にすり替えたのです。目的が自分たちのリアルな課題解決に変わった瞬間、現場の目の色が変わりました。
【コンサル術①】 目的を「ツールの導入」から「個人の課題解決」にすり替える
人は「会社の生産性向上」という大きな目的よりも、「自分の日々のイライラが解消される」という身近なメリットに心を動かされます。新しいシステムの話をする前に、まず現場のヒーロー(この場合はAさん)を見つけ、その人の「痛み」をプロジェクトの中心に据える。これが、冷え切った現場の空気を温める最初の着火剤になるのです。
「ゴミを入れればゴミしか…」地獄のデータ整備と“宝探し”
さて、現場の協力も得られ、いよいよAIに読み込ませる「教科書」となるデータの収集が始まりました。あの記事で言うところの「ステップ2:データ収集と整備」です。
ファイルサーバーを開いて、私たちは愕然としました。
- 「【最終】業務マニュアル_2018改訂.docx」
- 「【最新版】業務マニュアル(田中修正).docx」
- 「業務マニュアル(本当にコレが最新).xlsx」
どれが本当の最新版なのか誰にも分からないマニュアル。更新されずに放置された社内規定。そして極めつけは、ベテランの頭の中にしか存在しない「暗黙のルール」の数々。
Aさんが頭を抱えました。
「これ…どうすればいいんでしょう。正直、古くて使えない情報ばかりです。こんなのをAIに読み込ませても、まともな回答なんてできるわけないですよね?」
その通りです。「Garbage In, Garbage Out(ゴミを入れればゴミしか出てこない)」。これはAIの世界の鉄則です。
ここでベテラン課長がまた一言。
「ほれ見ろ。だから言ったべ。こいだば、わだしでねどわがらねごどばりだ。AIさなんか任せらんね。」
空気が再び凍りつきます。ここで私が提案したのは「完璧な教科書作りはやめましょう」ということでした。
「課長、Aさん。全部を整備する必要はありません。まずは、Aさんの元に寄せられる質問トップ10に答えられる情報だけを探し出す“宝探し”をしませんか?」
私たちは、AI導入プロジェクトを一時中断し、「社内情報の棚卸し」という地味な作業に切り替えました。Aさんが過去の問い合わせメールを分析して頻出質問をリストアップし、それに対して「正解」が書かれている資料を、課長が自身の経験と知識でジャッジしていく。
この作業は、予想以上に効果がありました。
Aさんは、ただの問い合わせ対応担当者から「社内の知識を整理する専門家」へと意識が変わり始めました。課長は、自分の持つノウハウが「AIの教科書」という形で次世代に継承されることに、まんざらでもない様子でした。
「ミズさん、この手順書な、昔おれが作ったやつだ。懐かしいなや。ここの部分は今と違うがら、直しでおがねどダメだな」
そう言って、課長自ら赤ペンで修正を入れ始めました。
【コンサル術②】 「完璧」を目指さず、「8割の人が使う2割の情報」に絞り込む
壮大な計画は、人を尻込みさせます。特に、日々の業務で手一杯の現場担当者にとっては、負担でしかありません。パレートの法則を応用し、「よくある質問トップ10」という具体的なゴールを設定することで、どこから手をつけていいか分からない状態から脱却できます。そして、この地道な「宝探し」のプロセス自体が、関係者の当事者意識を育み、チームの一体感を醸成するのです。
「AIはウソをつく」レビュー地獄と、意識を変えた魔法の言葉
いよいよ、整備したデータを元に、RAGを使ってFAQのドラフトをAIに生成させました。出てきた回答を見たメンバーの第一声は、決してポジティブなものではありませんでした。
「なんか、文章が硬いですね…」
「この表現だと、ちょっとニュアンスが違うかな」
「そもそも、この回答、うちの部署の例外ケースが考慮されてないじゃないか!」
あの記事で言う「ステップ6:レビューと承認フロー」が、新たな壁として立ちはだかりました。各部署の専門家であるレビューアたちは、AIの回答の「あら探し」に終始し、修正の赤字で真っ赤になったドキュメントが返ってくる日々。誰もが「AIって、この程度か」「結局、人間が全部書き直すなら意味ないじゃないか」と感じ始めていました。
このままでは、レビューがボトルネックになってプロジェクトが頓挫する。そう感じた私は、レビューア全員を集めた会議で、ひとつの提案をしました。
「皆さん、少し考え方を変えてみませんか。このAIを、『何でも知ってる完璧な専門家』だと思うのをやめましょう。彼は、『やる気はあるけど、まだこの会社のことをよく知らない、素直な新人』なんです」
会議室が、少しざわつきました。私は続けます。
「新人に仕事を教える時、『ここがダメだ』と突き返すだけでは、彼は育ちませんよね。『この回答を100点にするには、君の専門家としての知識をあと少しだけ足してほしい。例えば、どんな一文を加えれば、もっと分かりやすくなるかな?』という視点で、彼を育ててあげてほしいんです」
この「AI=新人育成」というメタファーは、劇的に機能しました。
レビューアたちの意識が、「AIの評価者」から「AIの教育係」へと変わったのです。
それまで「この回答は間違いだ」と指摘するだけだった人が、「このケースの場合は、『ただし、〇〇の場合は別途申請が必要です』という一文を加えよう」と、具体的な改善案を出してくれるようになりました。
Aさんも、各部署からのフィードバックをAIへの指示(プロンプト)に反映させる役割を担うことで、部署間のハブとして頼られる存在になっていきました。
【コンサル術③】 「AI=完璧なツール」から「AI=育てる新人」へ意識転換を促す
AIの回答は、あくまで「質の高いドラフト」です。それを100点満点の成果物にする最後のピースは、現場の専門知識を持つ人間にしか埋められません。レビューの目的を「あら探し」から「育成」に変えるだけで、フィードバックは建設的になり、AIの精度も、そして何よりプロジェクトに関わる人々のエンゲージメントも飛躍的に向上するのです。
まとめ:AI導入の成否は、テクノロジーではなく「人」が決める
紆余曲折を経て、この会社の社内FAQシステムは無事にリリースされました。Aさんの元にかかってくる電話は、プロジェクト開始前の3割以下に減り、彼女は空いた時間で、より付加価値の高い業務改善活動に取り組んでいます。あのベテラン課長は、今では「うちの部署のナレッジは、おれが一番よく分かってるからな」と、誰よりも熱心にFAQの更新をしてくれる、頼れるコンテンツオーナーになりました。
あの記事に書いた7つのステップや、4つの手法比較は、間違いなくプロジェクトを成功に導くための羅針盤です。しかし、その航海の途中には、必ず「人の感情」という名の嵐や、「部署の壁」という名の暗礁が待ち構えています。
AI導入のプロジェクトは、単なるシステム開発ではありません。それは、組織のコミュニケーションのあり方や、仕事の進め方そのものを変革する、壮大なチェンジマネジメントの旅です。
もしあなたが今、社内でAI活用を推進する立場にいるのなら、最新の技術動向を追うのと同じくらい、いや、それ以上に、現場で働く一人ひとりの「声なき声」に耳を傾けてみてください。
「またこの質問か…」
その小さな溜息こそが、あなたのプロジェクトが本当に解決すべき課題であり、組織を動かす最大のエネルギー源になるはずですから。